人が自然に生きられる社会

昨日紹介した『ヨーロッパの目 日本の目』に、私が初めてのヨーロッパ旅行以来、ヨーロッパに惹かれていた理由(「落ち着く」という表現の方が正しいかも)が「これだっ!」と腑に落ちる言葉になっていたので引用。

人が自然に生きられる社会をどう維持するか、この点に努力をすることが文化の要諦だと考えています。 生活する一人ひとりの心のキャパシティを想像し考慮しながら、すべての経済活動がおこなわれることが鍵です。 良質と表現されてしかるべきモノやコトは、こうした社会からしか生まれようがありません。

「なぜアメリカではなくヨーロッパのビジネススクールに行ったんですか?」と聞かれたことは数えきれず、今まで「ヨーロッパにはQuality of Lifeがある」、「文化度が高い」(→『都市の文化度』)などの表現しか思いつかなかったのですが、経済性だけではない、人の平穏な生活を邪魔する権利は誰にもない、ことが社会の根底に行き渡っているとたしかに思います。
イタリアではイギリスに比べて街がHigh street chain(*1)に浸食されていないことに驚きます。 街には狭い地域に何軒も個人オーナーのバルがあり、どうやら経済的に成り立っているようです。
*1・・・スーパーではTESCO、Sainsbury’sなど、ドラッグストアはBoots、コーヒーはStarbucksやCosta、衣料品はNext、GAPなど、駅前のHigh streetの街並みはどこも一緒。 駅から離れるとindependent shopsがあります(→『日本の鉄道会社の事業モデルは海外でも有効か?』)。


この点に関しては、ミラノにある靴屋(店主が客と雑談を始め客の生活・趣味を会話の中でつかみ、イメージがつかめたところで客にあった靴をプレゼンするお店)を例にあげ、次のようなロジックで説明されています。

店からすれば、相手のことをよく知らないで品物を売るなんて失礼ではないか、非効率ではないかというロジックがあります。 たとえ、そのときに商売が成立しなくても、お互い次回にチャンスを持ち越せます。
この発想が都市活性化の源なのです。 最初にコミュニケーションありきです。 どうコミュニケーションをつくろうかと工夫するところから考えなければいけない。 そんなおしゃべりのない空間には、活性化の見込みはありません。

家から歩いてすぐのところに行きつけのカフェ(スタバではなく、independentの)やファーマーズ・マーケットがある、というのは私の家探しの(小さいけれど)重要なクライテリアで、今の家はそこもお気に入り。 お店の人が私の嗜好を覚えていてくれる、のは単純に嬉しい。
ただ、Independent shopがチェーンに負けずに残り、家族との時間を不可侵と捉える社会をありがたく思う一方で、宅配便などのサービスレベルの低さを何とかしてほしいと思う自分も混在しています(→『ここがすごいよ、クロネコヤマト』)。 個人の矛盾した感情・要求を内包しながら、社会全体でさじ加減の合意ができていれば住みやすいのでしょうね。

今年で3年目。 今年も『至福のオリーブオイル』をトスカーナのオリーブ畑オーナー・アルベルトから個人輸入します。
(割れ物のため)ロンドンで手渡しできる方に限り、まとめて購入しますのでご連絡ください。 価格の目安はこちらの一番下(数量により多少前後します)。


3 responses to “人が自然に生きられる社会

  • 哲学はなぜ間違うのか?

    意識して正しく動く

    私たちは正しく栄養供給システムにつながるために正しく世界を思い描き、その中を正し

  • anzai

    拙著を読んで頂き、ありがとうございました。
    よく人に言うのですが、「身体はジムに行って鍛えることができますが、心を強くすることは、至難の業です。ですから、その心のありようを基本に社会の設計をしないといけないと思うんですよね」と。それと、対面コミュニケーションを常に増幅する装置がないと、やはり社会経済的な動きが鈍くなると感じています。このあたりのベーシックなポイントが、どうもロジックのベースからポ~ンと抜けている。それが今の日本が迷走している遠因にあるのでしょう。出発点に霧がかかっているのではないか・・・と思うのです。

  • la dolce vita

    >anzaiさん
    ご丁寧にコメント頂き、ありがとうございます。
    >対面コミュニケーションを常に増幅する装置がないと、やはり社会経済的な動きが鈍くなると感じています。
    ふーむ、具体的にはどういうことでしょうか?

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