前回の続き。
翻訳イヤホンが出てくる数日前の話です。 きっかけは長男と次男が通う小学校の放課後に行われているクラブの中でスペイン語のクラブが最小催行人数である8人が集まらずキャンセルになったという話。
補足説明をすると、公立小学校ですが放課後のクラブは有料、希望者のみ、定員あり(日本と異なり先生のボランティアではない)。 日本の部活のようにひとつの部に所属するのではなく、それぞれのクラブが決まった曜日・時間に週1回で開催され、毎日さまざまなクラブの選択肢があります。 学校の先生が率いるクラブもあれば外部の習い事業者が学校の敷地内で開催するクラブもあり、部活より習い事に近いイメージ。 学校の敷地内でやってくれるので便利とは言え、決して安くはないので、いくつクラブをやらせるかは家庭によってまちまち。 最小催行人数が集まらなければキャンセルになることもよくあります。
子どものためにスペイン語のクラブを申し込んでいたのに未催行になったギリシャ人のママ友が「イギリス人は他の言語を学ぶのに興味がない」とぷりぷり怒っていた話を夫にしたところでした。 すると夫が「小学校で第二言語が必修じゃないなんておかしい」と熱弁をふるい始めたのです。
夫:「何でオランダ人やスウェーデン人が英語ができると思う? 彼らが特別に賢いからじゃない、小学校で英語が必修だからだ。」
私:「いやー、だってこれからの世界で英語はできなきゃだめでしょ。 でもこの国では英語は母語じゃん。」
夫:「それは外国語を学ぼうとしないイギリス人と同じ言い訳だ。 Brexitが何で起こったと思う? 英語を話せない=自分とは異なるよそ者だ、と思うような人たちが離脱に投票したんだ。」
私:「・・・・・」
夫:「僕の原体験のひとつは、高校の時、フランスに交換留学した時だ。 ローカルの人と同じ言語を同じように操れなければ、まともな個性あるひとりの人間として扱ってもらえない体験をした時だ。 世界には英語以外を母語とする人がいて、それぞれに自分たちと同じように個性があって、その言葉を理解しないと深く理解できないことがある、ということは外国語を学んで、自分が逆の立場になってみないと理解できない。 小学校でも外国語1ヵ国語は必修にするべきだ」
・・・とまあ、こんな内容の熱弁でした。
たしかに英語圏には、非英語ネイティブが聞き返すと聞こえなかったのだと思い、全く同じ口調で早口で声だけ大きくして繰り返すタイプの人がいます。 こういう人は母語ではない言葉を使うとはどういうことなのか考えたことも深く関わったこともないのでしょう。
ところで、自動翻訳が発達した世界になるとどうでしょう? 前回書いたように、「意図を伝える」だけでは機械が代替できるので、そのレベルの実用目的であれば他言語を学ぼうという人は減るでしょう。 機械翻訳の精度が上がれば、カスタマーセンターをはじめとする定型化できる言葉を使う職は機械に代替されるでしょうし、先進国の賃金には下方圧力がかかり低・中技能労働者の生活をさらに圧迫するかもしれません。
自動翻訳が発達する世界で「景気が回復しようが大企業が過去最高益を出そうが暮らしはちっともよくならない」と感じている人たち(Brexitで離脱に票を投じた層です)が、「自分の周り」以外の人が話す言語を多大な努力をして習得し世界の「自分の周り」以外の人の立場を理解しようとするとは思えません。 世界はこれまで以上に「意味は通じる」が「お互い理解し合わない」方向に向かうとすら思えます。 すでに不寛容が広がっている現在よりさらに、です。 夫が願う「イギリスの小学校は外国語を必修にするべきだ」とは真逆の方向で、「言語学習不要論」すら出るでしょう。
一方で、グローバリゼーションで人の移動はますます盛んになり、移動するのは生身の人間なので「意図を伝える」以上の目的が生まれます。 国際結婚の増加は人の移動が盛んになる世界の中で現れるひとつの現象ですが、両親の母語が異なる子どもは複数の言語環境で育ちます。 こういう子たちはこれからも増えると思います。 Brexitに代表されるように各地で、「人の自由な移動」に反動が来ていますが、よりつながった世界で大幅に人の移動が減るとはとても思えません。 言語に「意図を伝える」以上の目的 ー 文化を理解するため、自分のルーツである、など ー がある場合には、自動翻訳機で代替できないものです。
言語学習不要論が出る一方で、複数の文化と言語をバックグラウンドとする人間が増えるのが未来の形なのかな、と思います。
我が家の話に戻ります。
今のところ長男は土曜の大半がつぶれるのを嫌がってはおらず、友達がいるのでむしろ喜んで行っています。 現地校のクラスメイトにも家庭が二言語・三言語の子が複数いて、「土曜はAくん(両親ともギリシャ人)はギリシャ語学校に行ってるし、Wくん(両親とも中国人)は北京語学校に行ってる。 ボクは日本語学校に行くの」と納得しているようです。
あと2年くらいで土曜日はスポーツの対外試合や遠征があるようなので、その時にそちらを優先したいと言えば、「今までよく頑張ったね」と行かせてあげようと思っています。
私の中での整理としては2つです。
ティーンエージャーの時期は友人関係が全て、ひたすら周りと同じような自分になりたいものですが、大人になって仕事を始めると「他人との差別化」つまり「個性」が大事になります。 今後、私の子どもたちが日本とどう関わりを持つのかは彼ら次第ですが、日本語及び日本人であることが自分の個性となりルーツとなり、もっと探求したい、日本に住んでみたい、と思った時にその足がかりとなればいいと思っています。
カズオイシグロ氏がこのインタビュー(2006年、『文學界』)で
(作家になったのは)常に、日本人である両親の目を通してイギリスという国を見たので、自分の周りの社会とも距離を置いて育ったことにも関係があります。
と語っている点も非常に興味深いです。 オーストラリア人と日本人の子どもとしてイギリスで育つ私たちの子どもは物事を複数の角度から見る視線が身に付いてほしいと願っています。
ふたつめは、結果と同様にそこに至るプロセスを楽しむことが重要だということ。
子ども時代は人生の準備期間ではなく、人生そのものだ。
という言葉があります。 大人になった時にどのレベルの日本語が残っているのか、という結果にフォーカスするのではなく、子どもが日本語を学ぶプロセスを一緒に楽しむことにフォーカスするということ。
日本の文化・風習・慣習はイギリスとは全然異なるし、季節ごとにたくさんあって物珍しいので子どもたちは大喜びです。 3人の子育てに加え働いているので、月見団子つくったりお正月に飾ったり恵方巻きをつくって豆まきしたり、というような季節の行事は家では一切していませんが、土曜教室でやってくれるので非常に助かっています。
ただ、子どもたちの個性やルーツを育て、日本語学習の過程を楽しむことを目的に、前回の記事で示したように延べ11年間、3400時間と370万円を投じるのかと考えると・・・ うーん・・・ 答えはきっとNOなんでしょうね。
世界には6000もの言語があり、ユネスコによるとうち2500は消滅の危機にあると言われています(Wikipedia: 消滅危機言語の一覧)。
上記のような二極化する未来において、どちらのケースに振れても消滅危機にある言語を存続させるベクトルには動きません。 複数言語をバックグラウンドとした子どもが育つ時、ほぼ全てのケースで第一言語と第二言語と言語にヒエラルキーが生じ、子孫を通じて生き残って行くのは第一言語だからです。
水村美苗さんが『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』という衝撃的なタイトルの本を出版されてから9年経ちます。 当時、いろいろ思うところがあり、『英語のひとり勝ち』、『悪循環はすでに始まっているかもしれない』、『二重言語をどう活かすか』と三連続で記事を書いています。 9年経って彼女の懸念はさらにリアリティーを増しているのではないかと思います。
October 11th, 2017 at 2:45 pm
引き続き興味深く読みました。子供時代とはいえプロセスも大事!てのは本当にそうですよねえ。。
ただなんとなく読んでて、これは他の習い事と変わらない要素でもあるのかな、言語だけ特別な話だと身構えなくてもいいのかな、とも思いました。
私の母はピアノとリトミックの先生で、子供の頃無茶苦茶厳しく無理やりやらされたんですが、子供の頃すごい反発心があって、そこそこな程度で終わったんですよね。バンドのキーボーディストはできるけど親の教室の生徒のクラシックのコンサートに出てベートーベン弾けと言われると、三年ぐらい準備すりゃできるきもしれんがまあ無理だよね、というような(笑)
でも友人のプロのピアニスト兼作曲家の娘さんは喧嘩とかする必要もなくするするとメチャうまくなってて、その違いを考えるとうちの母親はあれこれ別の価値観でも育って欲しいと思うタイプだけど友人はもっと狭い範囲の技術習得を重視するとタイプだという事で、厳しくするしない、ケンカするしない関係なく、結局親の価値観の全体像が当然あるべき結果を運命のレールとして決めてたな、と思います。そう思えば、まあなるようにしかならんし、let it be以外はありえないんだなと思います。
ただこの話から見えてくる別のヒントがあって、それは結局バンドでは適当に弾けるし、全く弾けない人から見るとコードブックだけ見てすぐ適当に合わせられるのって魔法みたい!めっちゃ弾けるやん!て見えるけど、本当にピアノできる人との違いは本人的には全然違う事がわかってる、というこの感じは非常に『言語』の場合と似てる気がする、というこの『分水嶺』の問題で。
この『知らん人から見たら魔法に見える(実際には大したことないけど)』レベルに入るかどうかは、その技術のもたらす効用のレベルを段違いにするかもしれなくて、同じピアノ長い事子供の頃やらされてたけど、て人でもその『魔法に見える』レベル前だと本当に何も残ってないんだよねー、て思ってるし実際そうだ、というケースも多い気がします。
第二言語の日本語力の場合どこがその分水嶺になるのかわかりませんが、単に全く自然に任せるとその分水嶺の手前でやめちゃって、『本当に大人になった時何も残ってなくてそんなことならやらなけりゃよかった』になったりしないかな?と勝手な心配もありますね。こういう分水嶺みたいなのがあるよ、だからもうちょい頑張ってみない?ぐらいのアナウンスはあってもいいのかも?まあそれも含めてお母さんの価値観を本質的に体現して勝手に結果が出る世界だとは思いますが(笑)
それはそうと、別のページで英語ネイティブがむしろ不利になる世界という話面白かったです。なんか彼らは『ルーツ』的な世界観に逆に過剰に思い入れてる人がたまにいますね。本当にルーツ的なものに囲まれて育ってその重みも面倒くささも身に染みてる人間からするとナイーブすぎる感じなこと言う英語人をちらほら見ます。
後天的英語習得の大変さを味わってるぶん、その辺のアドバンテージはバンバン使わせてもらいたいものだなあ、と最近思うようになっています。長文失礼しました。またブログ楽しみに拝読しにきます。お元気でお暮らしください?
October 12th, 2017 at 8:57 am
コメントありがとうございます。
ピアノのお話はわかります、私も10年やりましたが、残ったのは絶対音感だけです、今は指は全然動きません。
ピアノ(音楽)もそうかもしれませんが、言語の特徴としては「臨界期」が早いことだと思います(スポーツもそう?) いわゆる教育ママではないので(と本人は思っている)、早期学習は全く興味ありませんが、小さい頃は言語とスポーツ(身体能力・体力)だけやってくれれば、あと必要なことは後から身に付いてくると思います。
分水嶺のお話ですが、言語は分水嶺を超えても使い続けない以上、錆びます。 日本人でもパソコンで変換するだけでは漢字が書けなくなるし、英語で分水嶺を超えても(というか非ネイティブには分水嶺はないです・・・)日常生活で話し続けないと、口が回らなくなります。
あらゆる習い事は①プロになる、②趣味として一生続ける、③習い事で得る副次的なもの(忍耐力、スポーツマンシップ、交友関係、体力、絶対音感など)を大事にする、の3パターンに行き着くと思いますが、子どもの頃の習い事は③で終わるのが多いんでしょうね。 そこにどこまで親ががんばるか、ということですが・・・
October 17th, 2017 at 4:54 pm
日本にルーツを持っている在留邦人のバイリンガル/マルチリンガルのお子さんに対して、ネットで日本語(継承語)の個人レッスンを行う事業を7年近く続けている者です。いつもブログを読むばっかりだったのですが(4年ほど前に一度だけコメントしたかも)ちょうど自分の携わる分野で共感できる所多数だったため、コメントします。
一般的に親御さんがお子さんに学ばせたい日本語教育のニーズは大きく二分して
・教科としての国語(漢字・言葉の決まり・作文)
・日本文化の体験学習(和の行事や風習の知識)
なのかなと思います。
と、これだけならシンプルなのですが、日本人親が日本独自のHigh Context Cultureで自身が育った自覚がないまま我が子の継承語教育を始めると少しやっかりです(駐在組に多いかも)。周囲の人の反応を意識したり他人の表情や言動から自分への評価を敏感に感じ取る子であってほしい、空気を読んでうまく立ち回れる人間であってほしいというひそかな願いがついつい顔を出し、言語外のコンテキスト(雰囲気/非言語コミュニケーシ)も悟れるようになってほしい=日本の中でKYと言われたくないと本気で願う親御さんが一定数いるのですね。日本に帰国しても浮かず皆に好かれるための親心でしょうが、子供の方は何を求められているかよくわからず中には苦しむ子もいます。
この点、国際結婚組のほうが良い意味で割り切りが早く明確なゴールを決められる方が多いようです。日本語学校に卒業はありますが継承語教育に卒業はないので達成目標を決めるのは親しかいません。だからこそゴール設定という名前の線引き(あきらめ)は大事だし、目標を決めたらそこに至るまでの過程はできるだけ継続性を重視し楽しく幸せなものであることが一番だと思います。
たとえゆるやかであっても、幼少期からずっと日本語の語彙に触れていれば、本人が何らかの理由で「日本語をしもっと学びたい!」と決意すれば努力の分だけブーストしてくれます。一方で興味がなければいつか語彙は消えカタコト英語のような日本語で終わるのでしょうが、先に書いたような和の行事や風習(お正月のお年玉・端午の節句・夏の一時帰国での小学校体験など)が楽しい思い出と共にあるのならそれはそれで豊かなものを子供に与えられたといえると思います。
在留邦人の子も英語が不得手な日本の子もひっくるめて、世界中に住む “Google翻訳イヤホンが出てくる時代” に生まれた子供達は、語彙力や文法力のなさをイヤホンに助けてもらうことで詰め込み型の語学学習からある程度開放されるのかもしれませんが、その分だけ、その国に対して強い関心があるかどうか(アニメやファッションが好きなど)、幸せな文化体験を持っているかどうかが、いままで以上にコミュニケーションの礎になるのでしょうね。
必死さを伴う従来型の学習でなく、豊かな人生の一助となるような新しくゆるやかな継承語教育の形がこれから求められていくのだと思います。ぜひ頑張ってくださいね!
October 17th, 2017 at 8:29 pm
大変わかりやすい整理をありがとうございます。
我が家は日本に住む予定が特にないので(あまり先のことを計画しないので住むかもしれませんが)、空気を読むことは求めていませんが、今度の一時帰国で長男が小学校体験するのですが、そこで楽しい思い出をつくるにも日本語が必要というジレンマに陥っています(笑)。
また、漢字学習に多くの時間を取られ(習った先から本人は忘れていますが、次々と新しい漢字が出てきます)、本を読んだり作文を書いたり漢字学習以外のことに費やす時間がほとんど取れません。
「すらすら読めるようになったらマンガを買ってあげる」と言っているのですが、なかなかすらすら読めるようになるのは遠い道のりです・・・ 本人が日本にずっと興味を持ち続けてくれればいいですが、興味を失う子はたくさんいるので、そうなった時には淋しいですね。