最近、台湾、南太平洋、フィリピン、インドネシア(スマトラ)、インド南部と大災害が続きますね・・・
昨日のToastmastersではマニラ出身のフィリピン人が大洪水の惨状をプレゼンし、ヘイズごときで騒いでいるシンガポール(→『国境を越えた大気汚染』)に住める幸せをみんなで噛みしめました。
阪神・淡路大震災の起った1995年はボランティア元年と呼ばれていますが、私にとってはボランティア・トラウマ元年です。
1月17日未明、ただごとではない揺れに私も飛び起きましたが、あの揺れは奈良では震度4でした(神戸:震度7、大阪:震度6、京都:震度5、なのでどれだけ直下型であったかがわかります)。 家の中のものが落ちたり植木が倒れたりはしたものの、揺れがおさまり再び眠りに落ちた私。
当時、お気楽な大学1年生。 起きると家族はとっくに出かけており、テレビも見ず、友達と待ち合わせていた大学(京都)に向かいました(奈良ー京都間の電車は動いていた。 神戸はもちろんのこと奈良ー大阪間、大阪ー京都間は全日不通、というのは後から知った)。 待ち合わせていた友達(神戸在住)がいつまで経っても来ない、当時は携帯もない、おかしいなーと思いながら入った大学の食堂のテレビで初めてあの朝起ったことを知りました。
当時、私には神戸から京都の大学まで通っている友達が非常に多かったのですが、全員の安否が確認できたのはその数日後のことでした。 でもそのほとんどが自宅半壊、親戚が亡くなる、など何らかの大きな被害を受けていました。
私には何の被害もなく、被害を受けた親戚もおらず、自分だけがぬくぬく、のうのうと暮らしていることにひどく罪悪感を感じる日々でした。
ところが、大学では地震の翌日から期末試験が始まりました。
ほとんどの教授は震災地域(神戸と大阪の一部)に住み、試験に出席することができない学生に対して、試験免除・後日レポート提出、という措置を取りました。 ところが、それ以外の学生に対しては通常通り、毎日のように試験が行われました。
試験免除された神戸の友達はみなボランティアに精を出していました。 私は震災ボランティアが全国から次々と到着し活動する様子を毎日テレビで見ながら、どうしても試験を投げ捨てて駆けつけられずにいました。 当時の京大(教養課程)は期末の試験一本勝負という授業ばかりだったので、試験を全部あきらめること=大学1年の単位を全部を落とすこと、を意味しました。
今から思えば、単位を落とすなどたいしたことではないし、実際そうした人もいたと思います。
が、私はもんもんと悩むだけで日は過ぎ、日に日に、救援物資を届ける・炊き出しをする、といった人海戦的なボランティアの必要性はなくなり、ようやく試験が終わった3週間後には、もう遠隔から現地入りして泊まり込むようなボランティアは必要なくなっていました。
その後も、直接被害に合った友人の心の傷は長く残っていたと思いますが、私には友人の痛みを分かち合えなかったこと、自分が試験を捨て駆けつけられなかったことのトラウマが残りました。 この一件以来、ボランティアなど社会貢献は大きな自己犠牲を払わないとできないこと、という刷り込みができあがりました。
思い出話だけで長くなってしまったので、明日に続く・・・
October 6th, 2009 at 9:10 pm
私の場合は、阪神大震災の翌日が入っていた大学オケの演奏会、しかも場所は尼崎、というタイミングだったなぁ。(もちろん、演奏会はなくなった) 阪大の試験は、もう少しあとだったように思うけど、阪大は、大学自体もかなり被害をうけて、ほとんどの先生の研究室が外から見えるくらいめちゃくちゃになっていたので、試験はあったかどうかさえも覚えてない・・・ 神戸在住の友人の家に安否確認の電話したら、「裏の家が燃えてるから逃げる!」と言われたのも衝撃でした。みんなで使えそうなものとか、水のいらないシャンプーとか差し入れしたけど、大した役にはたっていなかったのかもね・・・。
October 7th, 2009 at 9:14 am
>えり
>阪大は、大学自体もかなり被害をうけて、ほとんどの先生の研究室が外から見えるくらいめちゃくちゃになっていたので、試験はあったかどうかさえも覚えてない・・・
そう、大阪(北部)だったらそんな感じだったと思う、が、京大は全く問題なかったので、フツーに試験が開催されました(大学の周りに住んでる下宿生がほとんどだしね)。
>神戸在住の友人の家に安否確認の電話したら、「裏の家が燃えてるから逃げる!」と言われたのも衝撃でした。
直後に神戸によく電話通じたねー、私通じなかったよ。 線路も切断されて、神戸の西の方に住んでた友達は福知山線かなんか使って学校来てた。