人との関係性の中で生きる人

昨日の『尾崎豊がわからない。』の続き。
『キュレーションの時代』では他者からの「まなざし」が地獄であるという精神構造が90年代に入って終焉を迎え、逆に他者からの「まなざしの不在」が地獄になる、という精神性を象徴する事件として2つの事件が挙げられています。
1つめは当時、世を震撼させた「酒鬼薔薇」少年連続殺人事件(1997年)。 以下は有名な犯行声明文。

「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今でも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中だけでも実在の人間として頂きたいのである。」

2つめは、まだ記憶に新しい秋葉原連続殺傷事件(2008年)。 加藤被告の逮捕後の供述内容より。

「掲示板(2ちゃんねる)は他に代わるものがない大切なもの・・・」
「私にとっては家族のような・・・、家族同然の人間関係でした」
「掲示板の自分のスレッドに私になりすます偽物や、荒らし行為を行う者がいたので、対処してほしいと掲示板の管理人に頼みました。 自分が事件を起こしたことを知らせたかった」


いずれの事件も動機には他者からの「まなざし」の要求が底部を流れています(大事な人を失った家族や友人には、とんでもない動機だと思いますが)。

かつてのような「同じ釜の飯を食った」「仕事も酒も遊びも一緒に」といった360度的な全面的な交際はなくなり、仕事や遊び、飲み、家族といった別々の関係性を自分の中でそれぞれ確立し、それぞれに良好な関係性を構築していこうという多面的な交際へと移ってきています。

本ではここからつながりや共感が最大のテーマである人々の消費行動の話につながっていくのですが、私は「人は人との関係性の中でしか生きていけず、他者からの「まなざし」や「つながり」がありすぎても、なさすぎても辛いのか」となんだか複雑な気持ちになりました。

社会の有言・無言の圧力・規律・慣習などに従わさせられるアジアには戻りたくない

と言っていたロンドンに住むマレーシア人Eのことや(『留学するなら大学? 大学院?』より)、

誰にも一度も杭鬱剤を飲んでいることすら話したことない、だって誰にも聞かれたことなかったから

という、アメリカ人エグゼクティブのエピソード(『余計なお世話』より)を思い出します。
結局、「他人と比べない」、「自分の周りの人を思いっきり大事にする」という、いつもと同じ結論しか出てきませんが・・・


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