尾崎豊がわからない。

なでしこジャパン、ワールドカップ優勝おめでとう!
佐々木俊尚さんの『キュレーションの時代』はTwitterやFoursquareなどのツールを使ってソーシャルに情報をやりとりする時代の変化を解いた本なのですが、『コカ・コーラCMにみる戦後文化』に書いたように、戦後の日本の社会の空気の分析が非常に面白かったので、今日もそこから。
戦前から続いた農村社会は、戦後に農村が崩壊して都会に膨大な人口移動をもたらす中でも、同じようなムラ社会的構造を生き永らえた。 その中で他者からの「まなざし」(*1)に苦しむ若者の例として2人挙げています。
*1・・・「まなざし」とは人々のアイデンティティーをパッケージ(服装や容姿・持ち物といった見た目の具象的なパッケージと出生や学歴・肩書きなどの属性のパッケージからなる)によってくるみ、そのパッケージで規定することを強要すること。
1人目は『青春の殺人者』という映画の主人公(予告編はこちら)。

『青春の殺人者』のモチーフは、どこにも逃げる場所のない苦しさです。 両親という息苦しい人間関係、成田という閉塞した地方都市、暴走族に溜まり場にされて自由にならない自分の居場所。 安住できる安定した場所だけれども、そこには窒息しそうな空気が充満していて、当時の若者は多かれ少なかれ水谷豊の演じる主人公と同じような閉塞感を抱き、その場所からの脱却を夢想していました。


もう1人は永山則夫という連続殺人事件の犯罪者。

永山の人生は、戦後社会のある種の象徴です。 北海道・網走の番外地にあった貧しい家に生まれ、母親の実家である青森県で育ちました。 極貧をつねに周囲からバカにされ続け、その家から脱出することだけが彼の夢でした。 中学を出て東京に出て行けば、すべてがうまくいく – 彼はそう信じていました。(中略)
しかしそれは幻想にすぎませんでした。 しょせん永山は青森から集団就職で出てきた貧しい田舎者にすぎません。 東京の人々は、彼をそういう存在としてしか見てくれないのです。(中略)

私はこの本を読むまでどちらも知りませんでしたが、「自分がいま生きている息苦しい場所からの逃走」が若者の大きなテーマだった、という箇所で尾崎豊を思い出しました。

仕組まれた自由に 誰も気づかずに
あがいた日々も 終る
この支配からの 卒業
闘いからの 卒業

私は尾崎豊もリアルタイムで聴いてないし、そこまで窮屈な青春時代も送っていないのですが(それどころか、かなり自由で適当な高校だった)、何となーく感覚としてはわかります。
『バックパッカー時代も悪くない』に書いた

自分に貼られた「京大生女子」というラベルが嫌いだったので、そんなラベルが全く意味をなさない海の外で自分を試す、わざわざ自ら好んで痛い思いをしにいく、そんな旅。

が近いかもしれない。 この頃、日本を飛び出して海外を彷徨っていたことがきっかけとなって今の自分につながっているんだろうから、「思えば遠くまで来てしまったなー」と思います。
ところが、他者からの「まなざし」が地獄であるという精神性は、日本の高度経済成長の終わり、総中流社会の崩壊とともに消えていったのだそう。
つまり、今の中高生には尾崎豊の「この支配」の感覚がわからない、ということ?
ティーンエージャーの精神的苦痛はいつの時代も変わらないと思っていた私には、なかなか衝撃的な発見でした。
あまりに長くなってしまったので続きは明日。


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