「ハレ」と「ケ」の建築 – 1

前回に続いて建築の話。
ヨーロッパに住んでいて日本に帰国した時にまず初めにショックを受けるのは、街並みの汚さです。 成田から東京都心に向かう途中や関空から大阪市内に向かう途中の車窓から見える住宅街の街並み ー 建物に全く統一感がなく隙間なく電線が張り巡らされ、ケバケバしい巨大看板やネオンで溢れる街並み ー を見ながら「これが本当に世界中のデザイナーが憧れる日本かー」(注1)とギャップに愕然とします。
注1・・・以前、IDEOロンドン事務所のデザイナーと話した時に「デザイナーはみんな日本に行きたがるよね」と言われたことがあります。

京都の伏見稲荷の鳥居や嵯峨野の竹林の道、桂離宮や龍安寺の石庭など日本のイメージを代表する美しいシンプリシティ(注2)と、雑然とした街並みのギャップが、日本はヨーロッパに比べて大きすぎるように思います。 人間の脳は「見たいものしか見ない」ようにできているらしいですが、日本に長年住むと眼孔を開いていても目の前の煩雑さには何も感じずに素通りできる特殊能力(一種の麻痺状態)が身に付くのでしょうか。 日本を離れてしばらくするとこの特殊能力が鈍ってくるところが不思議です。
注2・・・外国人から見るとこういうイメージ→“Our Japan from Marc Ambuehl”“In Japan from Vincent Urban”

日本の景観があまりにも配慮なく醜悪化している件はアレックス・カー氏の『ニッポン景観論』に詳しいです。 本のエッセンスは日経ビジネスオンラインのコラム『これでいいの?日本の景観』でも読めます。

私も、日本の伝統的な建造物の美しさと、普通の街並み(注3)の醜さのギャップの解釈には長年苦しんでいたのですが、日本の「ちゃぶ台引っくり返し」文化(注4)のせいで戦前と現代の間に断絶があるからだと思っていました。 そして戦後の国土交通省(及びその他お役所)の国土開発戦略があまりにひどすぎたのだと・・・
注3・・・特筆すべき重要建築物ではない普通の街並みのことを建築用語で”Background architecture”(背景建築)と言い、観光客に「何度も訪れたい」と思わせリピート率に寄与します。
注4・・・『ゴスロリとちゃぶ台ひっくり返し』というエントリーで書きましたが、日本の多くの文化・造形は戦後でいったんぶっつり切れます。

ところが、最近読んだ奥山清行氏の『100年の価値をデザインする: 「本物のクリエイティブ力」をどう磨くか』にまさにこの点について違う視点があったので引用します。

前から思っていたことだが、日本のデザインには「表と裏」がある。 もう少し踏み込んで言うなら、日本は社会の表側の部分にしかデザインがない。
「ハレ」と「ケ」という言い方はご存じと思うが、「ハレ」はオフィシャル、「ケ」はカジュアルである。 日本のハレのデザインは、世界中から高く評価されている通り、シンプルで力強く、美しい。 しかし、ケのデザインはどうだろうか。 そもそも日本にケのデザインは存在するのか?

これを読んで「なるほど」と思いました。 日本で残っているのは「ハレ」の建築だけで「ケ」の建築はどんどんスクラップ&ビルドの対象になってきたし、今もなっているのでしょう。 
イギリスには「ハレ」も「ケ」も古い建築が残っており、それがイギリスらしさ、『そこにしかないもの(景観)』を生み出しています。 「ハレ」と「ケ」の建築の間に大きなデザイン的な差はありませんし、イギリス人は「時の試練を経た古い建物にこそ価値がある」と考えるので、「ケ」の建物をせっせと改修して住みます。 構造や耐熱・防音・防水など建造物の骨格にまで手を入れて「またあと100年は持つわね」と、(自分が生きているかどうかに関わらず)にっこり微笑むのが彼らです。 まあその改修をするのが大変なのですが・・・(注5)。
注5・・・2年前行った築120年の自宅改装→『古い家を改修しながら住み続けるということ – 1』『– 2』
次回はロンドンという都市の景観を構成する「ハレ」と「ケ」の建物を写真でご紹介します。


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