日本にいた頃は、「余計なお世話な人が多いなー」と思っていました。
20代前半には「彼氏いないの?」
20代後半になると「結婚しないの?」
結婚すると「子どもはまだ?」
1人目が生まれると「2人目は?」
・・・と延々と続く社会のプレッシャー・・・というイメージであった。
ところがどっこい。
シンガポールに来て「日本(正しくは「東京」かな。 日本では東京以外で社会人したことないので)なんて全然甘いぜ」と思うことがよくあります。
今の私たちの場合は「子どもは?」ですね。
友達はもちろんのこと、初対面の相手(中国系シンガポール人)からも普通に聞かれます。 ちなみに、子どもがいる人の話によると、男の子だと喜ばれ、女の子だと「2人目は?」と聞かれるらしい。
結婚してから日本に住んでいないので比較はできないですが、子どものことに関する余計なお世話っぷりはおそらく中国系の方が上。
「子どもをたくさん産んで3世代の家族全員で中華の丸テーブルを囲むことが幸せ」みたいな価値観が根強く残っているのだなー、とつくづく感じます。
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余計なお世話
チャイナ・ドリーム
彼女との待ち合わせ時間の30分前、待ち合わせ場所のスタバの奥の静かな席に座り、事前に送付されたアプリケーション(受験申請書類)に目を通していました。
その日はINSEAD受験生のインタビュー(面接)を行う日。
私は中国北部の農村に生まれた。 村では子供は高校に行かず、親の農作業を手伝うのが普通だった。 私の両親は教育に理解があり、私を高校まで行かせてくれたが、大学に行かせる家計の余裕はなかった。
高校卒業後、私は地元の専門学校に通い始めたが、大学進学をあきらめきれず、シンガポール政府の奨学金に申請したら合格通知がきた。 必死で英語の勉強をした私は1年後、シンガポール国立大学に入学した。
学費は奨学金で賄えたが生活費は自分で稼がなければならなかった。 昼は大学に行き、夜はバイトをして自分の生活費と親への仕送りにした。 私の仕送りのおかげで弟は大学に入ることができた。
大学卒業後(コンピューター・サイエンス専攻)は大学院(修士課程)に進もうと思っていたが、ちょうど起こったアジア通貨危機の影響でその年に大学院奨学金を受けられる成績水準が引き上げられた。 生活のためバイトをしなければならなかった私は、奨学金の申請資格である成績にわずかに足らなかった。
大学卒業後はシンガポールの企業でエンジニアとして働き始めた。 夜間の大学院に通うため、必死でお金を貯め、オペレーション・マネジメントの修士号を取得した。 学位を活かして、純粋なエンジニアからマネジメントとエンジニアの中間のポジションへ転職した。
シンガポールの企業で7年間働き、奨学金の義務を果たした今、INSEADでMBAを取り、コンサルタントへのキャリア・チェンジをはかりたい。
読んでるうちにじわーっと涙が出てきた私。
おいおい、人の受験エッセイ読んで泣いてどうする・・・
多文化の街 マラッカ
だいぶ日が経ってしまいましたが、クリスマス直後に2泊3日でマラッカに行ってきました。
シンガポールからマレー半島をバスで北上すること5時間(そのうち1時間は出入国手続き)、マレーシア最古の街であり、マラッカ海峡の交易で栄え、ポルトガル・オランダが支配したこともある多文化な港町。
2008年7月には世界遺産にも登録されたのですが、あんまりそのアピールは感じられませんでした。
夫の思いつきで旅行3日前に行くことを決めたので予習が足らなかったのですが、「ここ、シンガポールよりマルチカルチュアルかも」というのが第一印象でした。
シンガポールの人口構成は
中国系 75%、マレー系 14%、インド系 9%、その他 3%
なので、多文化といえどもやはり華僑の国だと日々感じています。
ところが、マレー半島を北上するとマレー系の人口がどんどん多くなっていきます(正確には中国系がマレー半島を南下してきたのだが)。
マレー半島先端にあるジョホール・バルはシンガポールと同じく中国系がマジョリティー。 経済的にもシンガポールに組み込まれており、越境通学・通勤する人も多いです。
それがマラッカまで来ると、
マレー系 60%、中国系 30%、その他=ポルトガル系の子孫、インド系など
と、かなり民族バランスが拮抗しているのです。
国家は人を容れる器でしかない?
昨日の夜遅くに上海・北京の旅から帰ってきました。 最終日の万里の長城が見事に晴天で、日焼け止めを持って行かなかったため、顔が雪焼けのように腫れ上がっています。
上海・北京でお世話になった皆様、ありがとうございました。
私が中国に行こうと思ったきっかけは華僑の国に住み、華僑に興味を持ったためですが、中国で出会った(街であいさつしたとかいうレベルではなく、友人に連れて行ってもらった飲み会・イベントなどで話をした)人々も、台湾人、香港人、台湾系アメリカ人、香港系オーストラリア人、シンガポール人、中華系マレーシア人・・・華僑ばっかり。
私は中国語ができないので、英語でのコミュニケーションに限られてしまったのですが、上海生まれの上海育ち、今は上海で欧米系高級ブランドの戦略チームに属し、さぞかし上海でハッピーかと思われた友人も「娘のためにシンガポール移住を考えている」とかで娘さんはシンガポール人候補。
よくあちこちと動き回り、そしてよく自分たちだけで集う人たちである・・・
華僑の移住モデル
先週の予告通り、一昨日から上海にいます。
全体的な感想は旅が終わってからにするとして、今回の旅で再会した友人たちの話を。
私は上海・北京に多くの友人(ほぼ全員INSEAD同級生)がいますが、大きく2つのグループに分かれます。
- 中国にチャンスを見出して移住し、自分でビジネスをしている欧米人(→『果たしてヤジ馬なのか歴史の証人なのか』で書いたような人たち)
- 幼少期に香港・台湾から家族ともども北米・オーストラリアに移住し、欧米で教育・キャリアを積んだ後、過去5年以内に上海・北京に移ってきた(香港・台湾出身)中国人
上記2.に属する友人の家族の歴史は華僑の移住の歴史。
祖父母世代、親世代、本人世代、それぞれ時代によって理由は異なりますが、移住を繰り返しています。 迫害を逃れるためなど必要に迫られたものだったり、子供のより良い教育機会を求めるためなどopportunistic(機に乗じた)だったり、その時々でのベストな判断だったのでしょうが、とにかくそのたくましさと軽やかさは何度聞いても感動を覚えます。